2010・10月21日・・旧安田邸での重陽の節句

こよみに五節句(節供)があります。
一月七日 (人日じんじつ) 七草の節句 無病息災を願う
三月三日 (上巳じょうし) ももの節句 女児の成長を願う
五月五日 (端午たんご) 菖蒲の節句 男児の成長を願う
七月七日 (七夕しちせき) 星祭り 技巧の向上を願う
九月九日 (重陽ちょうよう) 菊の節句 不老長寿を願う

いずれも奇数のかさなりです。古代中国が発祥で『重陽』とは、一番大きな陽の数(奇数)が重なる日を意味し、陽が極まって陰(凶)に転じないように儀式を行ったことに由来します。菊を不老長寿にちなんで用い、家族や親しい人の息災を祈りことから『菊の節句』ともいわれます。
今年の旧暦9月9日は10月16日ですが少し遅れて20〜24日まで行われていていて21日に見てきました。

被せ綿(きせわた)の行事

宮中行事で嵯峨天皇の頃から菊をテーマにした宴会が宮中で盛んに行われていて宮中の女性が考え出した菊の被せ棉というのだそうです。
9月9日の前夜に菊の花に真綿を被せて夜露で方向を綿にしみこませて翌朝顔ヤ肌をぬぐって若返りや健康を願ったことが枕草子に書かれています。又箱につめて大事な人に送ったそうです。


菊職人の町
団子坂で菊人形が展示されるようになったのは幕末のころから。谷中や千駄木界隈には寺社が多く、その庭木やお供えの花などの需要から、江戸末期から植木職人がたくさん集まっていました。その宣伝のためのショールームとして、それぞれの植木職人が腕によりをかけ、庶民に人気があった歌舞伎役者や、討ち入りなどの事件をテーマに、人の姿を菊細工でつくったのが菊人形の始まりのようです。
 明治維新の時期には一度衰退しましたが、その後盛り返し、明治20〜30年ごろに最盛期を迎えます。しかし両国の国技館などで電気じかけの大がかりな菊人形展示が始まったりしたのに押され、明治44年が最後の開催となりました。
 日露戦争(明治38年終結)後の話である『三四郎』は、終わりに近い時期ということなりますが、その描写を見る限り、まだまだその人気は衰えていなかったようです。

菊にまつわるさまざまな物が展示されていました。その一部です


菊慈童 (きくじどう)伝説

此方のサイトをご覧下さい



以前旧安田邸へ行った時のアルバムは此方です

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