8月15日湯島天神
泉鏡花『婦系図』の舞台 湯島天満宮に行ってきました。
江戸時代から「湯島天満宮」「湯島天神」と呼ばれていました
。
平成12年に正式名称を「湯島天満宮」に改め、「湯島天神」は通称になります。
目的は宝物殿で行われている特 別 展【 茶人 −古田織部− 】を見てきました。
地下鉄湯島駅から歩いて楽な女坂から入りました。男坂は急なのです。
写真はサムネイルです。
【高座の碑】
講談高座発祥の地
江戸時代中期までの講談は 町の辻々に立っての辻講釈や 粗末な小屋で聴衆と同じ高さで演じら
れていました
文化4年(1807年)湯島天満宮の境内に住み そこを席場としていた講談師伊東燕晋が 家康公の偉
業を読むにあたり庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に高さ三尺 一間四面の高座常設を北町奉
行小田切土佐守に願い出て許されたのが高座の始まりです。
【ガス灯】
ガス街灯は、明治5年(1872)開港地横浜に点灯されたのが最初で、東京には、同7年金杉橋・京橋間
に85基が設置されました。
ガス灯は、文明開化のシンボルで、明治の時代を象徴するものです。
東京ガス株式会社の協力を得て、ガス灯を設け点灯することになりましたが、これは都内で、
野外のものとしては、唯一つのものです。
【新派の碑】
「新派」の記念碑は新派劇創立90年を迎えた昭和52年11月1日松竹株式会社と水谷八重子氏
により新橋演舞場玄関脇に建てられました。
新橋演舞場の建替えの時に移築されました。
【社殿】
平成7年(1995)、総檜木造りとして造営されました。
湯島天神が創建されたのは西暦458年のことという。湯島天神の縁起によれば、
勅命によって天之手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀って創建されたものらしい。雄略天皇の御代、いわゆる“大化の改新”以前のことだ。
当然のことながら菅原道真公の生きた時代(845年〜903年)より古く、創建されたときには“天神社”ではなかったということになる。
やがて1355年(正平10年)、郷民が菅原道真公を慕って北野天満宮から勧請して合祀、
湯島天神が菅原道真公と天之手力雄命の二柱の神を祀っているのはこうした縁起による。
1478年(文明3年)に太田道灌によって再建された後、江戸時代に入ると徳川の庇護を受け、菅原道真公を祀る神社として広く人々の信仰を集めたという。
サイトからです。
【手水舎」の両側に「撫で牛】
道真公は乙丑の年に産まれたました。
「菅家聖廟略伝」には、菅公自ら遺言をされ、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の
行くところにとどめよ」とあり、その牛は、黙々と東に歩いて安楽寺四堂のほとりで動かなくなり、そこ
を御墓所と定めた、と書かれています。
牛の角を撫でていく方と方、体の悪いところを撫でていく方、・・・と多くの方々から「撫で牛」
として信仰されています。
湯島天神は梅が有名なので狛犬の台座も梅の彫刻です
【庭】
奇縁氷人石
1850年(嘉永3年)、江戸で初めて建てられたもので、迷子の伝言板のようなもの。
右側面に「たづぬるかた」左側面に「をしふるかた」とあり、尋ね人の特徴などを書いた紙を貼ったと言われています。
【宝物殿】
今回の目的はこの宝物殿で開催されている特 別 展 『 茶人 −古田織部− 』を観るためです。
【湯島天神 表鳥居(銅鳥居)】
銅製表鳥居(都指定文化財)
寛文7年(1667)9月創建され、同11年(1671)修理した銘かある。
下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。
この次に湯島聖堂に行ったのですがお休みでした。
築地塀(ついじべい)だけ写しました。
築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられれる塀です。
土塀のなかに更に横に並べて入れた土塀を特に「練塀」とも言います。